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偶然を装って
偶然を装って
Author: 海野雫

第一話 終電のベンチ

Author: 海野雫
last update publish date: 2026-05-01 19:01:45

 水曜日の夜、二十三時四十分。

 白瀬紡しらせつむぐは駅のホームの端で、電光掲示板を見上げていた。終電まで、あと三本残っている。残業明けの目の奥が、じんと重い。十月の上旬の夜気は、思っていたより冷たくて、スーツの隙間からするりと滑り込んでくる。コートにはまだ少し早い季節だった。

「……今日は終電じゃないだけ、ましか」

 吐き出した息が、白く空気に溶けた。誰にともなく呟いた声を、自分の耳で確かめるように聞く。明日もどうせ残業の予定だ。この疲労がそのまま明日に持ち越されることは、もうわかっていた。新ブランドの立ち上げが秋から本格化する、という話が部内に下りてきてから、紡のデスクには毎日、判断待ちの書類が積み上がっていく。会社を出るころには、もう、二十三時を回っていた。

 ポケットから指先をだして、目頭を軽く揉んだ。少しだけ、楽になった気がした。

 乗り換え案内のアナウンスが、ホームに流れる。同じトーンで繰り返される録音音声のあいだに、駅員の生のアナウンスが混じる。終電が近い時間の駅は、いつも、こんな空気をしている。明るすぎる蛍光灯と、薄く酒の匂いが漂う構内と、誰もどこかへ帰りたがっている顔ばかりが並ぶホーム。

 ふと、紡は自分の立っているこの駅が、自宅にも会社にも近くないことを、もう一度、意識した。乗り換えのために降りた駅だ、ということにしている。一年ほど前から、紡はときどき、わざわざこの界隈で電車を降りるようになった。理由は、自分でも、ちゃんと言葉にしていない。言葉にしたら、ばかみたいだから。

 ただ、何度かこの駅を歩いてみても、なにかが起きるわけではなかった。当然のように、なにも起きないまま、紡は何度も、別の路線に乗り換えて家に帰った。それでも、月に一度か二度、紡はこの駅に降りた。降りたあと、改札を出るでもなく、ホームのベンチに座って、しばらく電車を見送ってから、また別の電車に乗り直すこともあった。自分が、なにを期待してここで降りているのか、確認しないようにしてきた。確認したら、そのときに、自分の行動の意味が、急に、こわい色に変わる気がした。

 考えはじめたら止まらなくなる気がして、紡は浅く息を吸って、考えるのをやめた。

 電車が滑り込んできた。

 巻き上がった風が、前髪を乱す。冷たい空気がスーツの首元から入り込み、紡は反射的に肩をすぼめた。降りてくる乗客はまばらで、誰の顔にも、同じ色の疲れがにじんでいた。駅員が無機質な声で、乗り換えを案内している。

 電車のドアが閉まりかける音がした。

 乗ろうと、足を踏みだした、そのとき。

 ホームのベンチに、ひとり、男が崩れるように眠っている。その姿が、目の端に入った。

 酔いつぶれたサラリーマン。よくある光景だ。誰もが見て、見ないふりをして通り過ぎていく、夜の駅の風景のひとつ。

 不用心だな、と思いながら、紡もまた、視線を戻しかけた。

 戻しきれなかった。

 目の端が、なにかを引っかけていた。

 ベンチに崩れている男の、髪の分け目。喉のあたりに見える、小さなホクロ。耳のかたち。

 紡の足が、自然に止まる。

 ――似ている。

 いや、と紡は、すぐに自分の中の声を否定した。似ているだけだ、たぶん。十年も会っていない人間を、こんなところで見つけられるはずがない。世の中には、似た体格の、似た髪型の、似たホクロの位置の人間が、いくらでもいる。

 いくらでもいる、と言い聞かせながらも、紡の体はもう動かなかった。

「電車が発車します。ご注意ください」

 アナウンスが背中で鳴って、電車が走り去った。冷たい風が、もう一度、紡の体を通り抜けていく。乗るはずだった電車が、自分の視界の端で、加速していく音だけを残していった。

 目を、離せなかった。

 ホームをひとつ移動し、紡はゆっくり男に近づいた。一歩近づくごとに、記憶のなかの顔と、目の前の顔が、輪郭を合わせていく。少し大人びて、頬の影が深くなって、髪型は記憶より少し短くて、それでもなお、間違いようがなかった。見間違うわけがなかった。

 ――有馬朔也ありまさくや

 高校の卒業式の日、駅前で「じゃあな」と片手をあげて別れたきり、それきり連絡の取れなくなった、紡の幼馴染。

 卒業して半年も経たないうちに、紡が知っていた携帯番号は、使われていない番号のアナウンスに変わった。共通の友人に何度も訊いたが、誰も新しい連絡先を知らないと言った。紡は半年で探すのをやめた。やめた、というより、やめさせられた、というほうが、近かったかもしれない。

 探されたくないのだ、と気づいてしまった日のことを、紡はよく覚えていた。気づいたら、それ以上、探しようがなかった。理由を考えようとすると、いちばん考えたくない可能性が、まっ先に頭の中で形をとった。だから、考えることも、やめた。

 それから十年。たぶん、もう、二度と会わない。会わないままで、自分は、たぶん、生きていく。そう、何度も、自分に言い聞かせてきた。十年というのは、人を忘れるには十分な年月のはずだった。少なくとも、ほかの誰かのことならば、それで足りた。なのに、有馬のことだけは、忘れる、ということに、いつまで経っても、慣れなかった。

 言い聞かせてきた相手が、いま、目の前で、酔って眠っている。

 胸の奥を、内側から叩かれているような感覚があった。十年ぶりに見るその顔を前にして、紡は息をすることを、いつのまにか忘れていた。指先は冷たくなっているのに、握った手のひらには、じわりと汗がにじんでいる。心臓だけが、なぜか首のあたりまでせり上がってきているように感じた。

 ベンチの上で、有馬は呼吸に合わせて、肩がかすかに上下していた。生きている。あたりまえのことが、なぜか急に、たしかなことのように、紡には思えた。

 ――どうしよう。

 声をかけるべきか。それとも、このまま通り過ぎるべきか。

 通り過ぎたら、たぶん、もう、二度と会えない。終電に乗って、家に帰って、明日になれば、これは、夢みたいな話になる。十年もかけて積み上がった「会えない」のなかに、今夜の偶然も、すぐに紛れていく。明日の朝、紡はきっと、いつも通りスーツを着て会社に行き、いつも通り笑う。今夜のことは、なかったことになる。

 声をかけて、もしも、覚えていなかったら。「お前、誰?」と、知らない他人の顔で言われたら。――想像しただけで、紡は喉の奥が締まるのを感じた。それこそ、二度と、立ち直れない気がした。

 覚えてくれていたとしても、それでも邪険にされたら。「もう、関わらないでくれ」と、ひとことで切られたら。十年前、自分の知らないところで、自分から距離を取った人なのだ。今夜、声をかけたところで、その判断が変わる保証は、どこにもない。

 心が、やじろべえみたいに揺れる。声をかける、かけない、かける、かけない。揺れているうちにも、終電までの時間は、削られていく。

 なのに、と紡は思う。なのに、自分の足は、もう、ベンチから離れる方向には、動いてくれない。

 頭ではなにひとつまとまらないのに、紡の体は、勝手に、ベンチの前にしゃがみ込んでいた。

 近くで見ると、思っていたより、疲れた顔をしていた。頬の輪郭が、高校のころより、少しだけ痩せている気もした。それでも、眉の形も、通った鼻筋も、薄く開いた唇のかたちも、全部、紡の知っている、十年前の有馬のままだった。眠っているせいで、表情がほどけていて、それが、いっそう、昔の顔に近かった。

 目尻にだけ、見覚えのない疲れの線が、薄く刻まれている。十年というのは、こういう線のかたちで、人の顔に積もるのか、と紡は思った。自分の顔にも、たぶん、同じように積もっている。気づかないだけで。

 かすかに、酒の匂いがした。それから、整髪料のような、柑橘の匂いが、少し。知らない匂いだった。十年のあいだに、有馬がどんな日々を積み重ねてきたのかを、その匂いだけが、紡に、教えていた。

 ほっとしたような、こわいような、よくわからない感情が、胸のなかでゆっくりと混ざる。

 膝に置いた手を、紡はぎゅっと握った。

 通り過ぎたくない、と思った。

 もう、思ってしまっていた。

 喉に詰まりかけていた声を、紡は、押しだした。

「……有馬、だよね?」

 自分の声が、自分の耳に、思っていたよりも小さく届いた。語尾が、わずかに、震えていた。震えていたことに、自分でも、少し、驚いた。

 重たげな瞼が、ゆっくりと持ち上げられる。ぼんやりとしていた瞳が、少しずつ、焦点を結んでいく。

 その目が、紡の顔を捉えた瞬間。

 ほんのわずかに、見開かれた。

 ――ほんとうに、ほんの一瞬だけだった。次の瞬間にはもう、なにもなかったかのように、その表情は静かに元へ戻ってしまった。

 見間違いだったかもしれない、と思うほどの、短い時間。けれど、見間違いではなかったことを、紡は、なぜか、わかっていた。十年経っても、紡は、有馬の表情の動きだけは、自分の手のひらの皺と同じくらい、よく知っていた。

 有馬は、なにも言わなかった。

 ただ、紡の顔を、じっと見ている。眠りから覚めきっていないのか、覚めていながら言葉を選んでいるのか、どちらとも判別がつかない、静かな目だった。

 なにか言ってほしい、と紡は思った。なんでもいい、ひとことでいい。「久しぶり」でも、「誰だっけ」でも、いい。沈黙だけは、こわかった。沈黙のあいだに、十年分の距離が、もう一度、目の前で、ゆっくりと再生されていくような気がした。

 紡もまた、息をすることを、忘れていた。

 遠くで、終電の発車ベルが、鳴りはじめていた。

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